こんにちは、赤い実です。
最近、早起きして洗濯して、
出勤前にはほぼ乾いた洗濯物を取り込めるのが嬉しい。
梅雨入り前のささやかな幸せです。
こんなことができるのも、
季節が進んだから。
まだ雪の残る3月に起きた地震から、
はや二ヶ月半が過ぎようとしています。
東京が暖かくなったのと同じように、
被災地も初夏を迎えているわけです。
かつてほどではなくなったけれど、
私たちは一日のうちで必ず一度は、
どこかの被災地の写真や映像を見ます。
そしてその度に傷の深さを思い、
被災したみなさんにとっての真の復興とは何かを考えるわけです。
それだけ写真や映像は強い力を持っています。
けれど、そこからはどうしても感じ取れないものがあります。
嗅覚にうったえるもの、つまり
「におい」
です。
地震直後には、ずれた断層や崩壊した木材やコンクリートのにおい。
津波によってさらわれた場所では、潮のにおい。
そして今はおそらく、気温上昇に伴って進行する様々な意味での分解のにおい。
いわば喪失と停止のにおいが満ちているのです。
写真や映像の発達によって、
その場にいない人間でも知ることのできる情報は格段に増えました。
しかし、その場に行かなければ、身を置かなければ分からないものもある。
もちろん、においだけではないでしょう。
目に見えぬ様々なものに囲まれて、
そうしてはじめて私たちは生きていける。
そのことを改めて考えさせられます。
ここで私は写真や映像の限界を言いたいのではありません。
見えるものをはっきりと見せることによって、
人に、視覚や聴覚以外の存在を意識させる。
それができるのは写真や映像だけです。
五感を駆使して世界を感じること。
社会の問題を切り取らんとする社会学でこそ重要です
5月21